青森県・青森市・弘前市・十和田市・鰺ヶ沢町
作品概要
©1977 橋本プロダクション・東宝・シナノ企画
日本映画史に残る不朽の名作。監督・森谷司郎と脚本・橋本忍のコンビが、新田次郎の原作「八甲田山死の彷徨」を映画化した超大作。日露戦争の開戦が迫る明治35年、厳冬の青森県八甲田山を南北から踏破する雪中行軍を行った帝国陸軍の二連隊総勢237名が辿る過酷な運命を、高倉健、北大路欣也、三國連太郎ほか超豪華オールスターキャストで描く。総製作費7億円、過酷な雪の八甲田で3年がかりの撮影を敢行し、使用フィルムは実に30万フィートを越えるなど空前絶後のスケールとなった本作は、当時の日本映画歴代最高の興行収入を記録する大ヒットとなり、劇中で北大路欣也演じる神田大尉が呟く「天は我々を見放した…」は流行語にもなるなど大きな話題を呼んだ。
ストーリー
「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか―。」日露開戦を目前にした明治34年末。寒地装備、寒地訓練が不足していた帝国陸軍は、ロシア軍と戦うために厳冬期の八甲田を踏破し、寒さとは何か、雪とは何かを調査・研究する必要があると考えていた。その命を下された青森第5連隊の神田と弘前第31連隊の徳島は、責任の重さに慄然とする。冬の八甲田は生きて帰れぬ白い地獄と呼ばれているからだ。雪中行軍は双方が青森と弘前から出発し、八甲田ですれ違うという大筋のみが決定し、細部は各連隊独自の編成、方法で行う事になった。「この次お逢いするのは雪の八甲田で―」二人はそう再会を約束して別れたのだったが…。
地域・建築ばなし・プロダクションノート
映画製作の常識を打ち破り、3年間、八甲田山で遭難寸前の危険を冒してロケ撮影されました。
八甲田山の吹雪は人間の視界を閉ざし、呼吸さえ奪ってしまうもので、気温は零下22度、風速30メートル。風速が1メートル増すごとに体感温度は1度下がり、零下50度を超す寒さとなります。
製作・脚本の橋本忍は当初「冬山だからどこで撮っても一緒だから、東京になるべく近い、温泉のあるところで撮ろう。山の稜線へ行きゃ、どこも一緒だ」と考えていましたが、八甲田山で遭難した連隊が歩いたとおりの道を春の季節に歩き、八甲田山で撮るよりしょうがないという考えに至っています。映画には空気が映るんだ。雪は思ったように降るものでは無いことから1年ではできないから3年かかる、と決めています。(参考文献:「鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」春日太一著)
撮影にあたり、スタッフには「『八甲田山』ロケ心得」が配布され、「映画のような事故が現在でも起こりえる危険な山であり、吹雪で視界が零に近くなることがあるが、あわてず、その場を動かこと、各人は警笛を所持することなどが明記されていました。(参考文献:同上)
青森県鰺ヶ沢長平の岩木山麓の広大な台地で、「賽の河原」(遭難事故の場所)のシーンがロケ撮影されました。
鰺ヶ沢の長平は、日本海から突風が吹き付け、新雪を巻き上げる地吹雪の名所で、ひとたび風が吹けば一寸先も見えない白い闇につつまれる場所です。
鰺ヶ沢の長平のロケ撮影では、雪に埋もれた(出入口だけ掘り起こした)中古の観光バス5台を設置し,スタッフ50名・出演者200名の緊急避難場所にして撮影に臨んでいます。バスの中には24時間分の食糧と石油ストーブが用意されました。
新雪を崩して足跡をつけることが許されないため、キャストたちは極寒の中で一歩も動かずに立ち続けて撮影のチャンスを待つという過酷な撮影に臨んでいます。
キャメラはモータ部分を電気毛布で覆い、レンズの前に両側から強力な風を吹き出し雪を吹き飛ばす完全な防寒防雪のパナビジョン2台を使って撮影されました。
八甲田山遭難の事件では、寒気と疲労と絶望感から狂気の状態となり、自ら軍服を脱いで凍死する兵隊が実際にいました。そのシーンを撮影するため、体中にワセリンを塗って待機し撮影に臨みましたが、キャストは失神寸前の状態でした。
青森県十和田市深持の検行平の東斜面で、邦画史上初の人工雪崩を起こして撮影されました。103本のアナを彫り、ダイナマイト約50キロを仕掛けています。雪崩を正面から狙っていたキャメラはキャメラマンごと埋まってしまい騒然となったが、キャメラマンもキャメラも無事で事なきを得ています。
本作品の撮影は、シナリオの順番通り、順撮りした作品です。順撮りすることで、俳優たちは、現実的に追い込まれています。
こうした過酷なロケのため、エキストラの中には脱走するものも現れています。
劇中で早く死ねば、過酷な撮影現場を去ることができるため、早めの死を希望する俳優たちが相次いでいます。
子どもの頃の四季のシーンのロケ撮影も3年をかけています。
「ねぶた祭」シーンは、青森市と弘前市でロケ撮影されました。
後援は青森県で、青森県が「リンゴの花で一番美しい花はこれ」など、映画の制作サイドに教えています。
「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長(島田正吾)が2人の大尉(高倉健、北大路欣也)に言われる、第4旅団司令部の会議シーンは「青森市森林博物館」(青森営林局旧庁舎本館)の「旧営林局長室」でロケ撮影されました。
写真:青森市森林博物館「旧営林局長室」 写真提供:青森市森林博物館
明治の雰囲気を残す旧営林局長室は公開されています。
青森市森林博物館は、主に県産ヒバ材を使用した、外観の美しいルネッサンス式木造建築です。この建築は、明治41年(1908)に青森大林区署(のちの青森営林局)庁舎として建設されました。その後、営林局庁舎が新築される際、青森市が旧庁舎の本館部分を保存し、博物館となっています。当時の建築技術を考える上でも貴重な建物で、青森市の指定有形文化財になっています。
写真「青森市森林博物館」外観 写真提供:青森市森林博物館
なお、青森市森林博物館の別館(第7展示室)には、下北半島の森林鉄道で活躍した機関車が展示されています。この機関車は、映画「飢餓海峡」(昭和40年/1965)のロケでも使用された機関車です。
「天は我々を見放した」「八甲田で見たことは、一切喋ってはならぬ」というセリフが話題となり、「天は我々を見放した」は当時の流行語になっています。
製作サイドが考えていた映画「八甲田山」のテーマは「自然を征服できないもの、折り合うしか無い」というものでした。
一方、「八甲田山」の原作は当時、企業がたくさん買っていて、社内研修で使われていました。「上部の組織がちょっかい出してはいけない」という教訓があり、映画の中には、理不尽な上司に振り回されるサラリーマンの悲哀を重ねて見ることができます。このように、公開当時の社会にも通じる物語であったことも大ヒットした理由の一つと言われています。
青森市には「八甲田山雪中行軍遭難資料館」があります。「八甲田山雪中行軍遭難資料館」は、陸軍歩兵第五聯隊の「雪中行軍遭難事件」に関する資料館です。当時の時代背景や行軍計画、遭難・捜索の様子を史実に基づいた資料の展示と映像で紹介されています。その隣には、青森市が文化財史跡天然記念物に指定する犠牲者の「陸軍墓地」と「多行松」があります。多行松(たぎょうしょう)は幸畑陸軍墓地が作られた時に植栽されました。
ロケ地:都市・地域・施設(建築物・土木構造物)
青森県
青森市:青森市森林博物館、酸ヶ湯
弘前市:弘前城(外観)
十和田市 深持の検行平(東斜面)、大中台、十和田湖
鰺ヶ沢町:鰺ヶ沢の長平
写真「青森市森林博物館」前庭 写真提供:青森市森林博物館
映画にちなんだもの
大暴風雪、雪の進軍、雪中行軍隊、案内人、雪崩、熱燗の一杯、熱燗と温泉 風土、四季、リンゴの花、田植え、火送り、稲刈り
青森県民謡「弥三郎節」「ねぶた祭」
八甲田山、田代、賽の河原、馬立場、十和田湖、津軽、黒石、秋田
映級グルメ
映画に出てくるグルメ:リンゴ、おにぎり、凍ったおにぎり
支援
後援:青森県
キャスト
高倉健、北大路欣也、丹波哲郎、三国連太郎、加山雄三、小林桂樹、藤岡琢也、森田健作、緒方拳、前田吟、栗原小巻、加賀まりこ、秋吉久美子
スタッフ
- 監督:森谷司郎
- 脚本:橋本忍
- 製作:橋本忍、野村芳太郎、田中友幸
- 原作:新田次郎「八甲田山死の彷徨」
- 音楽:芥川也寸志
- 撮影:木村大作
- 照明:大澤暉男(ロケーション)、高島利雄(セット)
- 美術:阿久根巖
- 小道具:滋野晴美
- 録音:吉田庄太郎
- 衣裳:長島重夫
- 編集:池田美千子、竹村重吾
- 助監督:神山征二郎
- 製作担当者:小山孝和
- スチール:藤巻健二
作品データ
- クレジット:©1977 橋本プロダクション・東宝・シナノ企画
- 製作年:1977年
- 公開日:1977年6月18日
- 製作国:日本
- 配給:東宝
- 上映時間:169分
- 映倫区分:G
- 受賞歴等:第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞(高倉健)、最優秀音楽賞(芥川也寸志)
- ブルーレイ: 「八甲田山<4Kリマスターブルーレイ>」好評発売中 5,280円(税抜価格 4,800円) 発売・販売元:東宝
ゆかりの地図
青森市森林博物館 |
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